後小路雅弘(とかげ文庫主人)
九州芸文館で企画開催されたオンライン・トーク・イベント「コレクティヴと考える―パンデミック以降の地域文化活動の可能性」は、まことに稀有な、貴重な意義深い催しであった。企画実施したのは、インドネシア近代美術史研究を専門とし、インドネシア留学経験のある羽鳥悠樹で、留学時代の知見と人脈を生かした企画となっていた。このイベントは、5月から7月まで、ほぼ毎週末に継続的に開催され、廣田緑によるイントロダクション的な位置づけの第1回から、現代インドネシアの代表的なコレクティヴとも言うべきジャティワンギ・アート・ファクトリーをフューチャーした最終回まで、都合9回にわたって、わたしたちにはほとんどなじみのないインドネシア各地のコレクティヴを毎回招いて、その活動を紹介してもらう機会を設けたのである。
もちろんインドネシアは広大な海域と多数の島々からなる国であり、全国を網羅することは不可能であり、そこに多少とも地域的な偏りが生じるのは、現実問題として仕方のないことである。しかし、ジャワだけでなく、スマトラはもちろん、スラウェシやティモールのコレクティヴが登場するのは、驚きとともにある種の感慨を禁じ得ないものがある。いささか個人的な思い出になるのだが、1978年に初めてインドネシアを訪れ美術状況の調査を行ったが、調査に協力してくれたバンドン工科大の関係者と話し合った際、ジャワ以外の島の現代美術状況を聞いたが、ジャワ以外には美術活動はほとんどなく(スマトラに少しある程度で)、わざわざ訪れる必要はないと言われたことを思い出す。ジャワ島在住の美術家たちにとって、ほかの地域は眼中になく、見下している様子でもあった。政治、経済、文化の中心として、ジャワ島を価値体系の上位に置き、ほかの地域を劣位に置くジャワ中心主義的な価値観にはいまでも根強いものがあり、だからこそ今回のトーク・イベントが、広くほかの地域にも目を向けていることは意義深い。
また、そのアイデアを現実に可能にしているのは、感染症の世界的流行による閉塞的な状況をなんとか乗り越えて意義あるイベントを行おうという意思であり、またそうした状況によって広く用いられるようになったインターネットを介した通信技術である。パンデミックという危機を逆手にとってメリットに変えていくという試みは、今日のわたしたちに共感を呼び、また閉塞感に暗くなりがちな気持ちを励ましてくれるものであろう。
選ばれたテーマ「コレクティヴ」についても、コロナ禍で分断され孤立しがちなわたしたちに、あらためて人間同士のつながりや共同性、あるいはコミュニティの大切さを思い出させるものになっている。また、美術の分野で「アート・コレクティヴ」と呼ばれるアーティストたちの集団性や共同制作に注目が集まっていることにも歴史的意味はあるだろう。それは、近代という時代に美術が、あまりに作り手の内面の表現や個性というものを重視する方向に行き過ぎたあまり、社会の中での美術の役割や意味を狭い、限られたものにしたという反省の中から生まれてきたものだからだ。思えば、そもそも美術は、というより「美術」と名付けられる(近代)以前の人間の造形的な営みは、工房による共同制作や、宗教的な営為のなかで行われてきたものである。だから、コレクティヴとは、近代以前の美術のありようを見直し、それによって「近代」を乗り越えようとする営みである。もちろん近代にも、美術家による集団的な活動は常に行われてきた。印象派であれ、わが九州派であれ、インドネシアの5人組やプルサギもそうであった。ただ、そうした集団的な活動においても、芸術作品は常に美術家個人に結び付けられていた。モネの絵はモネのものであったし、スジョヨノの絵はスジョヨノに帰せられるべきものであった。今日のコレクティヴは、集団が集団として作者であり、ひとつの人格を成している。作品はその集団に帰属するのである。
つまり、集団的な営みとしての造形活動を美術家個人の「美術作品」ととらえるところに近代の歴史観、美術史観があり、そのうえに「美術」や「美術史」という制度は成り立っていたわけだ。慶派の共同制作は運慶の作品に、狩野派というコレクティヴの作品は狩野永徳の作品に、ルーベンス工房の作品はルーベンス個人の作品としてとらえ直されることによって美術史は成立した。集団ではなく、ひとりの天才の個性と創造性に目を向けることで、名作によって美術史は語られることになったのである。コレクティヴは、そうした美術史観への異議申し立てでもある。
アジアのアートシーンにコレクティヴに通じる問題意識を見たのは、管見の限り、2002年の光州ビエンナーレ(テーマは「PAUSE 止」)が最初であった。このとき個人名で表される出品作家のリストの中に、あきらかに意識的に美術家の集団的な活動の母体となる活動体が選ばれていた。当時、オルタナティヴ・スペースと呼ばれるようになっていた活動であったが、インドネシアからは、Cemeti Art Houseと ruangrupa、そしてAndar Manik & Marintan Sirait のユニットが参加していた。ほかにも台北の IT Park、ソウルのLoop Pool、シンガポールのPlastique Kinetic Wormsなどの名前が見られた。そこにははっきりと現在のコレクティヴに連なる問題意識が見られる。
わたし自身、福岡アジア美術館の開設に関わり、アジアの同時代美術の調査をする中で、インドネシアのアポティック・コミックなどと出会い、コレクティヴの可能性を考え始めていたこともあって、大いに刺激を受けた。
たしかに、アポティック・コミックもそうだし、当時すでに活動していたタリン・パディもそうであったが、インドネシアにはコレクティヴ的な集団活動がしばしば目立つ傾向はある。廣田緑さんが、本イベントの第1回で語ったサンガルと呼ばれる活動(もともと「画塾」の意味だが、転じて美術家集団の名前としても用いられる)は、1945年以降の革命(独立戦争)の時代から50年代まで活発に活動したが、スカルノ失脚後のスハルト体制下では活動ができず、スハルト以後にまた活性化した。そのサンガルの発展形としてコレクティヴをとらえることや、ゴトン・ロヨン(ジャワ農村の相互扶助の原理)との関係を考えることは、たしかに興味深く面白いが、軽々に断定することには慎重でなければならないだろう。ほかの国にも美術家のグループは必ずあり、農村社会であれば「相互扶助」的な活動も必ずあるからである。今のわたしにはインドネシアのコレクティヴがどこから来てどこへ行くのか判断する材料が不足している。今後の課題としておきたい。
さて、わたしは、このオンライン・トーク・イベントの最終回に登場したジャティワンギ・アート・ファクトリーの拠点西ジャワのジャティワンギを訪問したことがあり、その結果として展覧会に取り上げたことがある。わたしが大学教員をしながら行っていた学生のプロジェクトであるAQAプロジェクトの一環として、インドネシアと日本の現代美術を紹介する展覧会を企画実施したのである。インドネシアのアート・コレクティヴ理解の一助として、その時の体験について以下に触れておきたい。
スンダ地方(西ジャワ)の高原の大都市バンドンから北東へ100キロ、車で悪路を3時間ほど走るとようやくジャティワンギに到着する。この町は、古くからインドネシア特有の赤い屋根瓦の良質な産地として知られている。わたしが、2014年の1月、そのジャティワンギを訪ねたのは、もとより瓦を買うためではない。ジャティワンギ・アート・ファクトリー(略称JaF)のメンバーに会い、その活動について詳しく知るためである。
2013年9月、わたしはAQAプロジェクトの学生たちとインドネシア調査を行った。最初に訪れた首都ジャカルタのルアンルパのRURU galleryで見たのが国際映像祭「OKビデオ」の一環である”JAF versus KINETIK – WAFT Video Out – Muslihat OK. Video – Jakarta International Video Festival 2013″展という展覧会であった。それは、いくつかの映像とそれに関わる事物を並べた作品であり、文脈や背景がわからないので、十全に理解したとは言い難かったが、その村の住民であろう人々がノリの良い歌(ジャティワンギ・マーチ)を楽しげにリレー式に歌い継いでいくビデオに、一同心惹かれた。聞けば、その村の住民たちは屋根瓦を焼きながら、アート・フェスティバルやアーティスト・イン・レジデンス、果ては瓦職人たちによるボディビル大会など、コミュニティ・アートを展開しているということだった。その作品と村そのものに興味を持った私は、大学院生1名とともに2014年の1月インドネシアを再訪し、ジャティワンギにJaFを訪ねることができたのだった。
JaFの事務所兼住居で、わたしたちをあたたかく迎えてくれたのはリーダーのアリフ・ユディをはじめとするメンバーたちであったが、その中には村長や警察署長もいて驚かされた。彼らは、アーティストが本業で、村長も警察署長も趣味でやっている、と冗談を言って笑わせたが、話を聞くうちそれがあながち冗談ともいえないことがわかってきた。
彼らの活動について話を聞き、また多くの映像作品を見せてもらっていると、これが現実に起こっていることだろうかと不思議な気持ちになってきた。なんだかおとぎ話を聞いているような、いや自分がそのおとぎ話の中にいるような感覚だった。
ジャティワンギは、古くから屋根瓦などの素焼きの町として知られるが、近年ジャティワンギのある西ジャワ州マジャレンカ県では高速道路建設や国際空港の建設など、地域一帯の開発計画が進行中で、村民たちは、従来の生活が激変していくことを警戒していると聞いた。村人たちは、ジャティワンギ・アート・ファクトリーという、だれでも入れるゆるやかなグループを作り、村の活性化のために、アート・フェスティバルを開催し、アーティストを招聘し、村長も警察署長もみんなで映像作品を作り、歌を作って歌っている。村長自身のお役所仕事を揶揄する作品もあれば、役人も警察も軍隊も、みんなで仲良く田んぼへピクニックに出かけ、農作業を行う作品もある。大学教授や瓦工場の社長、宗教者などがヒップホップ風に踊りながら、この地域の伝統料理を称える歌を歌う作品もある。村人は瓦を焼きながら、みんな仲良く平和に暮らしましたとさ、めでたしめでたし、というナレーションが聞こえてくるようだ。
けれど、私たちはもう知っている、それはおとぎ話であって現実ではないことを。グローバル化や便利な生活と引き替えになにが失われていくのかをすでに身の回りでたくさん見てきた。現に高速道路建設のため、ブルドーザーが田んぼを破壊していく様を反対する村人たちが見守るような作品もある。利害が対立しているはずの村長や警察署長と、一般村民は、それでもともにアートを作りながら仲良く暮らしていくのだろうか。でも、そんな疑問も警戒心も、美しい歌声にかき消されていく。ジャティワンギは魂の地、われらの誓いはジャティワンギとともに、と大集団の高校生たちが無邪気に大合唱をする作品は、ヒットラー・ユーゲントや紅衛兵の類を連想させるようなまっすぐな熱狂で、正直言ってかなり恐ろしい気持ちになる。大丈夫なのか、この子たちは。
話が一段落すると、歌を作ろうということになった。そこでわたしが即興で作った歌詞は次のようなものだった。
海を越えて はるか遠く この町へやってきた
山を越えて はるか遠く この町へやってきた
ジャティワンギは おとぎ話のような町だった
でもジャティワンギが本当にあるのかわからない
本当にあるのかわからない わからない
歌が出来上がり、皆で合唱する頃には、激しいスコールがやってきた。雨音と雷鳴に歌声はかき消されがちだった。帰国した私の頭のなかで「本当にあるのかわからない」というリフレインが、美しいメロディとともに、いつまでも繰り返されていた。
それから一月後、九大生AQAプロジェクトによる現代美術展「世界の在りか ―インドネシアと日本」展が福岡アジア美術館交流ギャラリーで開催された。JaFの作品も何点か展示され、展覧会の充実に貢献した。ジャティワンギから3名が展覧会にやってきて、シンポジウムでジャティワンギの活動を紹介してくれた。学生たちは精一杯がんばってくれたが、期待したほどの反響はなかった。そして、これがAQAプロジェクトが企画した最後の国際展になった。
それから数年後、アリフ・ユディさんが訪ねてきた。国際交流基金から日本に招聘された機会に、福岡に立ち寄ってくれたのだった。アリフさんは、わたしがジャティワンギを訪ねてきたことにお礼を言うためにこうしてやってきたということだった。あの日、あなたがジャティワンギに突然やってきた日から世界が変わってしまった、とアリフさんは言った。アリフさんはなんだか物語の語り手のようだった。それから外国の展覧会にたびたび招聘されるようになって、JaFはすっかり有名になったとアリフさんは言った。村長も福岡から戻るや、別人のようになってバリバリ仕事をこなすようになった。JaFに対しても大きな予算をくれるようになり、JaFは新たな活動に取り組むことができるようになった。でも村長はあまりに熱心に仕事に取り組んで、改革を行った結果、上司に疎まれて左遷されてしまったと、アリフさんはちょっと悲しそうに、そして同時にちょっと愉快そうに言った。国際空港が完成し、高速道路が敷かれ、伝統の瓦産業はさらに衰退し、別の新しい工場が進出してきて、瓦職人さんたちは、その工場で働くようになったという。結末がハッピーエンドかどうかよくわからないけれど、ともかくジャティワンギの物語は、あいかわらず苦い教訓に彩られたおとぎ話のようだった。
さて、『美術手帖』が「アート・コレクティヴ」を特集したり(2018年4・5月合併号)、現在(2022年3月)森美術館では、日本のアート・コレクティヴの代表格にのし上がったChim↑Pomの回顧展が開かれるなど、現代美術におけるコレクティヴへの注目は高まりを見せているようである。ジャティワンギ・アート・ファクトリーを見ていると、その広がりは美術家集団の活動の枠をとっくに超え、アートがコミュニティになにを成しえるか、どのような作用を及ぼすか、あるいはどのような毒をまき散らし、その限界はどこにあるのか、といったより大きな問題へわたしたちを運んでいくように思われる。物語がどんな結末を迎えるのか、まだジャティワンギは終わらない。