青木恵理子(龍谷大学)
ルアンルパとドクメンタ
インドネシアのアート・コレクティヴについて知ったのは、2022年開催予定の第15回ドクメンタのアート・ディレクターに、ルアンルパ(ruangrupa)が選ばれたことを知った2020年の中頃だったと思う。
ドクメンタは、戦後1955年からほぼ5年に1回のペースで、ドイツの地方都市カッセルで開催されてきた国際芸術祭である。ドクメンタの出発点は、ナチス政権によって「退廃芸術」として弾圧された近現代芸術の復権および国際的な芸術界でのドイツの存在感を示すことであった。当初は、この「国際」というのは、「ヨーロッパ」あるいは西洋と同じように考えられていたと思われる。ヴェネチア・ビエンナーレと合わせて二大国際現代芸術祭といわれ、ヴェネチアの方がアート市場と親和性が高いのに対し、ドクメンタは、グローバリズムなどの体制を批判し、アートマーケットから距離を置いていると言われてきた。ヴェネチアが国ごとのパビリオンを設け、言ってみれば芸術の万博といった趣を持っているのに対し、ドクメンタはその回ごとのテーマによって、全体が組み立てられている。ドクメンタという名称は、ラテン語documentumに由来し、documentumは、docere(教える)とmens(思考・理解・精神)という語からなり、精神・理解の教育ということを意味するとのことである[1]。ドクメンタの基盤となっているこの理念から考えると、毎回のテーマは、何らかの思考・理解・精神を示すことになる。
ドクメンタは、毎回異なる角度から倫理性、ポリティカル・コレクトネス、世界のあるべき姿を標榜してきたともいえる。例えば、1997年には初の女性ディレクターが、2002年には初めて非西洋出身(ナイジェリア生まれ)のディレクターが選出されている。これらの決定は、女性差別やポストコロニアリズムに対する挑戦と理解できる。ドクメンタの展示を見ていないので乱暴なコメントかもしれないが、こういったチャレンジングなディレクターの選定にも関わらず、女性のアーティストの参加は、1997年は18%、2002年は23%、2007年は39%、2012年は32%、2017年は35%であった。また、11回のドクメンタでは、インドやアフリカの都市を含め、世界5か所にプラットフォームを設け、西洋の展覧会に疑問を投げかけたという。しかし、先回までのドクメンタにおいて非西洋世界が西洋と同等のエージェンシーをもつようになったということ、同等の関心の対象になっていることは確認できない。
では、2022年ドクメンタ15のアート・ディレクターへのルアンルパの選出は、なにを標榜しているのだろうか。ドクメンタのアート・ディレクターとしては、アジア人であることも、個人ではなくコレクティヴという集合性を活動主体としていることも初めてのことである。この二点は大きな意味をもっているであろう。
ドクメンタのホームページでは、ルアンルパについて以下のように解説されている。「ルアンルパは、2000年にジャカルタにおいて設立された、様々なコミュニティ・アート・プロジェクトを実施してきたコレクティヴである。(中略)それらの活動は、包括的で社会的、空間的、パーソナルな実践に基盤を持ち、そのような基盤は、友情、連帯、共同体が中心的価値をもつインドネシア文化に根差している。」集合性、包括性、友情、連帯、共同性が強調されているのが分かる。そのような期待を受けて、ルアンルパが掲げたテーマは「ルンブンlumbung」である。ドクメンタのホームページでは以下のように解説されている。「ルンブンはインドネシア語で「共同の米倉」を意味する。芸術的で経済的なモデルとしてのルンブンは、集合性、共同資源のシェアリング、平等分配に根差し、共同作業と展示のすべての部分にそれが具現化されている。ドクメンタ15に向けてルアンルパは、ともにルンブンを実践し、持続可能性とシェアリングの集合的実践の新しいモデルに取り組むために、世界中から、共同体を志向するコレクティヴや組織や機構を招待する。」lumbungそれ自体は穀物蔵や納屋を意味するが、「共同」ということを必ずしも意味しないので、彼らの活動を象徴的に示すために「共同」という語がルアンルパによって加えられたのかもしれない。ホームページからは、ドクメンタが、連帯や共同性を標榜して、アジアのコレクティヴを選び、ルアンルパはそれに答えようとしているのがわかる。
インドネシアのアート・コレクティヴとアートの社会的転回
インドネシアのアート・コレクティヴの起点は1998年の、反共開発独裁のスハルト大統領退陣を契機としているとしばしば語られる。スハルト退陣は、学生をはじめとする一般の人びとによる、国家の抑圧に抗し自由を求めた活動の成果ともいえるが、1989年から1990年に起こったソビエト連邦解体と東西ドイツ統一という出来事に象徴される、グローバルな新自由主義的経済体制への移行と大きく関係してもいる。冷戦の終結により、いわゆる自由主義諸国にとって、インドネシア政府が反共独裁である必要性が減少したことが、グローバルな背景となっていたといえるだろう。そのような世界情勢のなかで、1990年代以降、社会を志向するアート活動が、少なくとも欧米やその植民者の子孫たちが主流社会を形成している諸国家の都会において盛んにおこなわれるようになったと、芸術批評家のクレア・ビショップは、2012年出版の著書のなかで述べている[2]。この時代にそれまで社会に向かっていなかったアート活動が一般の人々と関わるようになったという。社会参加型アート、コミュニティ・アート、社会関与型アートなど、さまざまに呼ばれるアート活動がそれにあたる。一般に、アートの社会的転回が起こったと言われる。ビショップによれば、1990年代以降の社会的転回は、歴史上三回目のものであり、第一回目は1917年頃、第二回目は1960年代後半である。三回とも、政治的激動と社会変革の運動と重なっている。時期は少しずれるが、インドネシア(独立前は蘭領東インド)では、1938年に創設された「インドネシア画家協会Persatuan Ahli-Ahli Gambar Indonesia[3]」の活動、1970年代半ばに開始された「新美術運動Gerakan Seni Rupa Baru[4]」、1998年以降に創設され、現在でも増えているアート・コレクティヴの活動は、世界的に見られる三回の社会的転回に連動しているのではないだろうか。もしそうならば、ドクメンタによるルアンルパの選出は、現代におけるアートの社会的転回の一環をなしていることになる。
インドネシアのコレクティヴの特徴
極めて抑圧的なスハルト体制が終り、アーティスト達は自由な表現を謳歌しようとしたが、グローバルな新自由主義の影響下にある商業主義がアートを取り込もうとし、しかし、それを避けて活動しようにも、芸術に対する政府の政策はとても貧弱であった。そのような状況のなか、若い芸術家たちが生き残りをかけて、或いは、自らの芸術の実験的な取り組みをするために、個人ではなくコレクティヴとして活動を展開したと、今回のセミナーシリーズの初回で概説をしてくれた廣田緑氏が、2019年の論文で述べている[5]。廣田氏は、先行研究に基づき、アート・コレクティヴの一般的特徴として、集合的主体性、商業主義ではない独自の企画のための拠点を持っていること、ソーシャル・メディアを活用していることの三点を挙げている。今回のセミナーシリーズ「コレクティヴと考える―パンデミック以降の地域文化活動の可能性」でお話しいただいた8つのコレクティヴにも、程度の違いはあるかもしれないが、当てはまる。こういった特徴の外に、インドネシアのアート・コレクティヴ独特の性質として、歴史家のアンタリクサ氏は、ノンクロンnongkrong(目的なくおしゃべりする), ネベンnebeng(シェアする・相伴にあずかる)、ニャントリッnyantrik(一定の場所で寝食を共にして師から弟子に教えを伝える)をあげている。それに加えて、廣田氏は、インドネシアに広くみられる相互扶助的協働(ゴトンロヨンgotong royong)や共同生活(プサントレンpesantrenやコスコサンkos-kosan)を経験していることを、アート・コレクティヴの活動を下支えしているインドネシアの人々の特徴としてあげている。
私は、それに、人や場や状況に「馴染むこと」を加えたい。アンタリクサ氏も廣田氏も、インドネシア語の単語の意味から、インドネシアの人や社会の特徴を明確にしているが、「馴染むこと」は言語化されないハビトゥスhabitusの領域に根を張る。わたしは、そのような特徴をオーストロネシア的コスモポリタニズムと呼んだことがある[6]。オーストロネシアは、東はイースター島、西はマダガスカルまで広がっていることが確認できる語族である。インドネシア語の母体であるマレー語をはじめとして、インドネシア諸島の諸言語は概ねオーストロネシア語族に属す。オーストロネシア語族に属する言語を話す人たちは、数千年前に中国大陸南東部を起点として移動を開始し、各地に移住した人々の子孫であると考えることができる。インドネシアという国民国家の括りは、その長い移動のプロセスに比べれば、昨日のことのようなものであり、人々の活動に共通の条件を与える政治経済的事柄と考えられる。ニャントリッはヒンドゥー・仏教的な伝統であることから、ジャワの一部に限定されるし、プサントレンはジャワに中心をもつイスラム寄宿学校である。コスコサンは、オランダ語のin de kos(宿泊)に由来する。ゴトンロヨンという理念は日本統治のなかで強調されるようになったという。言い換えれば、それらは、「馴染むこと」がジャワ島を中心に歴史的に形を成した事例ともいえるのではないだろうか。インドネシア諸島の別の場所には別の「馴染むこと」の形がある。そう考えると、アート・コレクティヴも1998年以降のインドネシアという政治経済的条件のなかで、人や場や状況に「馴染むこと」が形を成したものであると考えることができる。今回のセミナーシリーズ「コレクティヴと考える」でお話しいただいた8つのコレクティヴの間でアートへの力点が多様であり変化していることも、それらが、場合によっては共同体(コムニタスkomunitas)やグループ(クロンポクkelompok)と呼ばれても納得がいく。
地域に馴染む
セミナーシリーズの8つのコレクティヴにも、ルアンルパにも共通して言えるのは、地域に馴染んでいるということだ。ドクメンタは、様々なソーシャル・メディアを使って発信している。YouTubeを媒体としての発信もにぎやかだ。そのようなYou Tube映像の一つで、ルアンルパのメンバーたちが、「確かにドクメンタは尊敬に値する芸術祭であるが、私たちにはジャカルタでやらなくてはいけないことがある。アート・ディレクターを引き受けることが、ジャカルタでのルアンルパの活動に重荷になるのではないかということを懸念した。[7]」と述べている。インドネシアからは、ルンブン・メンバーズに、私たちもお話を聴く機会を得た、グッドスクル(Gudskul)とジャティワンギ・アート・ファクトリ-(Jatiwangi art Factory, 以下、JaF)が、ルンブン・アーティスツとして、タリン・パディ(Taring Padi)が選ばれている。グッドスクルは、ジャカルタの高校などでの自由な教育を展開し、JaFは、オランダ植民地時代に始まった瓦製造という地場産業が衰退するなかで、瓦や瓦製造をアートに結び付け、瓦粘土からテラコッタ作品を創ることによって、ジャティワンギという西ジャワの町の存在感を住民自身の間でもインドネシアというコンテクストにおいても盛り上げた。今回のオンライン・セミナーのお話のなかで、アリフさんが「アートというと、政治や経済というより通りがいい」と、行政的な手続きに関連して語っていたと思うが、状況が違えば、アートではなく別の媒体を選んでいたかもしれない。JaFにとって重要なのは、ジャティワンギという地域である。タリン・パディは、民衆rakyatの平等を掲げた、スハルト政権への抵抗運動から1998年に生まれた、インドネシアでもっとも古いアート・コレクティヴである。ドクメンタHPのYouTube映像は1998年当時の抵抗運動の映像からはじまり、現在の民衆たちを、自作の素朴なパペットとともに映している[8]。スカルノ時代にしばしば耳にし、インドネシア共産党系の芸術団体「民衆文化研究所Lembaga Kebudajaan Rakjat」の名称にも使われていた、民衆rakyatという言葉を使い、労働者や民衆の存在を強調するなど、タリン・パディは、インドネシアのアート・コレクティヴのなかでも、もっともイデオロギー性の強いコレクティヴであると思われるが、拠点はジョクジャカルタであることには揺らぎがない[9]。
人と状況に馴染む
アート・コレクティヴだけでなくインドネシアの人々が様々な状況に臨機応変に対応し、気楽に関係をつくり、困難な状況をもどうにか切り抜けてしまうことには、私はしばしば驚かされてきた。
もう30年もまえのこと。私は関空からバリ経由でフローレス島に向かおうとしていた。早朝家を発ち空港に到着。その時は、ガルーダ航空に乗る段取りだった。既にチェックインも済ませ、くつろいで待っていた。バリ行きのガルーダの出発を待つほとんどの人は、インドネシア人だった。インドネシア語の会話の環があちこちで広がっていた。出発予定時間はもう過ぎていた。「遅れます」というアナウンスが時おり入ったが、どのくらい遅れるかは知らされなかった。機体の整備に時間がかかっているとのこと。「準備ができ次第搭乗していただきます。」1時間くらいの遅れだろうか、と高を括っていた。飛んでから調子悪くなるんじゃなくてよかった、とも思っていた。遅れが2時間を超した。周りのインドネシア人をみると、平然とおしゃべりを楽しんでいる。「ほれほれ、今移動したあの飛行機じゃないの、私たちが乗るのは」とはしゃいでいる人もいる。結局ガルーダ航空の飛行機は8時間遅れた。その間、インドネシア人の乗客たちはイライラしていないばかりか楽しんでいる様子だった。
同じような経験を、廣田緑氏は1990年代にバリ島でしている。おんぼろベモ(十数人でいっぱいになる乗り合いバス)に乗ったところ、山道で故障してしまった。運転手は修理に取り組んだが1時間ほどするとあきらめ、10名ほどの乗客もベモを押す羽目になった。「けれど、こんなときにもバリの人々はその状況を楽しんでいるように見える。帰宅して、面白い土産話ができることが嬉しいらしい。不運や困難までをも楽しんでしまえるバリ人の逞しさにはいつものことながら敬服する。[10]」廣田氏は、自らの経験をバリ人に敷衍して考えているが、おそらくインドネシア諸島に敷衍することができるのではないだろうか。
最近、こんなことも知り合いの研究者から聞いた。日本からインドネシアに一時帰国した人が、新型コロナウイルス感染防止の規則に従って一定日数ホテルに留まった。食事はそれぞれの部屋で食べられるように配布されたが、別の部屋の人達とも仲良くなり、みんなで一部屋に集まって、食事をしながらおしゃべりで盛り上がり、楽しく日々を過ごしたそうだ。
ETV(NHK教育テレビ)ドキュメンタリー『草の根から世界を変える~マグサイサイ賞受賞者と民主主義~[11]』(2021年12月25日放映)も、インドネシアのドキュメンタリー映像制作集団ウォッチドック(WatchDoc[12])メンバーが困難な状況に「馴染む」様子を映し出していた。社会政治経済の矛盾と問題を示す出来事を果敢にカメラに収め、スピーディーに発信するということに日々尽力しているコレクティヴである。経費を抑えるために編集制作室を兼ねるオフィスはジャカルタのはずれにある。インドネシアではよくあることだが、そこでも頻繁に停電が起こる。ETVが、創立者の一人であるダンディさんにインタヴューしていた最中にも起こった。その瞬間、ダンディさんは微笑んだ。インドネシアの人々の間で長いこと暮らしたことのある人なら、必ず出くわしたことのある、あの笑顔である。言葉にすれば、「大丈夫tidak apa apa」、「よくあることbiasa」、「お手上げangkat tangang」といったところだろうか。
人、場、状況に「馴染む」というハビトゥスは、恐らくインドネシア諸島のどこでも見出されるだろう。アート・コレクティヴの在り方が多様であるのは、それぞれの地域やその歴史、さらに集まった人たち自体が活動の条件となり、「馴染む」というハビトゥスが異なる顕れ方をしているからではないだろうか。ルアンルパの活動もそのような顕れの一つだといえる。
国際的活動
ルアンルパは、首都である巨大都市ジャカルタという場所に「馴染んだ」活動を展開している。同時に、2002の年の韓国光州ビエンナーレへの参加を皮切りとして、トルコ、デンマーク、イギリス、シンガポール、アラブ首長国連邦、オーストラリア、ブラジル、日本、オランダ、フランス、中国で開催された展覧会や芸術祭に参加している[13]。
なかでも、2016年オランダの都市アーネムで開催された現代芸術祭「SONSBEEK’16: transACTION(transHISTRY:this is my truth,tell me yours)[14]」では、アート・ディレクターを務めた。かつてインドネシアを植民地化していた国オランダの芸術祭で、インドネシアのアート・コレクティヴが主導的な役割を果たすということは、歴史的にも政治的にも意義の大きいことである。しかし、ルアンルパはここでも、政治的上空飛行をするのではなく、芸術祭の一年前に、ルル・ハウスという活動拠点をアーネムの町の真ん中の空き店舗に作り、地域に馴染み、住民や訪問者と交流を展開した[15]。具体的には、アーネムの公共空間や公共性との関係を中心に、多くの住民の物語を聞いた。リサーチの結果、少なくとも次の三点が分かったという。アーネムの町は、不動産の高騰により中心部の過疎化が起こっている。第二次世界大戦が現在でも重要な意味を持っている。多くの住民が新来の移民の扱いに苦労している。さらに、住民に話を聴いてゆくなかで、第二の点とも大きく関わる歴史語りのタブーを発見した。どのような場所にも、それを語ることにより苦痛を引き起こしてしまうような語りのタブーがある。アーネムではそれは、インドネシアに対する植民地化の暗い側面だ。「オランダ人は、植民地時代をロマンティックに語り、黄金時代などと呼んだりする。もちろん、私たちインドネシア人はその時代をそれとは異なるものとして記憶している。」とルアンルパ・メンバーは指摘する[16]。こういった記憶のギャップの発見は、しばしば苦痛に満ちた沈黙を生み出しがちだが、ルアンルパは、こういった苦痛こそが、芸術的祝祭への転回点、新しい理解への契機となるとする。アーネム中心部の、多くの人々が行きかう場所を拠点として、1年にわたり住民の語りを聴くという等身大の活動やそれを踏まえた芸術祭は、アーネムの町の住人の、さらに芸術祭のその他の来訪者の、日常的な姿勢に影響を与えただろう。
ルンブン・メンバーズ&アーティスツへの期待
では、ドクメンタ15では、ルアンルパ、タリン・パディ、JaF、グッドスクルは、どのようなオルタナティヴな流れを引き起こしてくれるだろうか。ドクメンタ15でも、ソンズビーク16の時と同じように、ルアンルパはルル・ハウスを開き、地域と住民に「馴染む」活動を既に行ってきている。さらに世界中から70余の様々なコレクティヴやアーティストをルンブン・メンバーズ&アーティスツとして招き入れ、相互に「馴染む」ような活動を、SNSを縦横に利用しながら展開している。
ルアンルパは、美術館や国際展の組織化について以下のように述べている。組織化が大きな規模になると、官僚的になり、人間味が薄れてしまう危険性を持つが、ルアンルパの場合は、人間味のある積極的参加をすることによって、自由に協働する道を開く[17]。人間味のある積極的参加の中心には、出会いに手間暇かける、等身大でそれぞれのハビトゥスのままくり返し時間を共にする、ということがある。目的なく集まっておしゃべりし、結果として、知識やアイディアやリソースが共有され、ネットワークが形成される。
官僚的であることは、分類すること、物事の境界を明確にすることを基本にしている。誰が国民で誰がそうではないか。誰が補助金の、飲酒禁止の、選挙権等々の対象となり、誰がそこから排除されるか。分類することは人間の基本的属性でもあり、世界中のどの社会にもみられる。ただ、その顕れ、つまりハビトゥスは異なる。官僚制の運用では、人間は個としてではなく、まずカテゴリーとして把握される。官僚的であることのもう一つの特性は、人間の数量化である。これにより、人間味が消される。官僚制は、厳格な境界設定による分類と数量化による秩序を求める。官僚制によって内部に取り込まれ排除されなかった人間は、秩序の適切性や目的を問うことなく、秩序の維持に邁進し、代替可能な組織の一部となるとしばしば指摘されてきた。手段が目的化することにより、排除されなかった人間からも人間味が失われる。ナチズムは官僚制の極端な形態であるといえる。それは、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、性的マイノリティなどを排除と殲滅の対象として明確に定め、番号を与え、移送や殲滅の人数として把握した。ナチスの官僚制の内部に取り込まれた人間は、排除と殲滅の責任を忠実に遂行しようとし、そのような秩序維持に価値を見出した。
アウシュビッツへのユダヤ人大量輸送を指揮したナチスSDのアドルフ・アイヒマンは[18]、その任務を忠実に果たすことに充実感を見出していた。また、エルサレムでの公判中に「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字」と述べたという[19]。彼は、輸送列車の発着時間にとても厳格であったという。また、法学者ベルンハルト・シュリンク原作の映画『愛を読む人』[20]の女性主人公は、ユダヤ人収容所の女性看守であった。戦後その罪を問われた裁判で、彼女は、収容されていたユダヤ人女性60人をガス室へと定期的に送ったのは、看守の当然の責任として、次々と移送されてくる新たなユダヤ人の収容スペースを確保するためであった、と証言した。また、収容所の在った町が戦火に見舞われた時、多数のユダヤ女性を収容していた教会も火事になり、看守が鍵を開けなかったために収容されていた人はほとんど焼死した。「その時鍵を開けなかったのはなぜか」と問われ彼女は、「秩序を守るためにそうしなくてはならなかった」と答えた。実話に基づく映画『シンドラーのリスト』[21]でも、主人公シンドラーは、彼の工場で働いてもらうことによって収容所行きを阻止できたユダヤ人の人数にこだわっている。
映画は、創作を多く含むと思うが、ナチズム体制下で頂点に達した、人間のカテゴリー化と数量化を重要な要素とする、疎外、合理化、規律化、管理統制、従属的主体の在り方を見事に描きだしている。また、ナチス体制下に顕著なこれらの特性は、近現代の社会一般に通じることを藤原辰史は多くの著作で示している。とくに『ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』[22]は、栄養学による科学的支配、ナチスの諸事業による構造的支配、企業による道具の支配のなかで、一般の人々、とくに主婦たちが、従属的主体を誇りとともに形成していった過程を示し、さらにそれが、近現代社会に通底していることを示している。現代の国家はナチス体制ほどの構造的支配は行っていないかもしれないが、科学的支配や消費を通じた企業による支配は、自由を自認する従属的主体の形成に、より大きな影響を与えているといえるのではないだろうか。
ドイツ民族は、ナショナル・アイデンティティが不安定であるために、勤勉、規律正しさ、合理性などの所謂「ドイツ的価値観」が大きな役割を果たしてきたと、藤原だけでなく他の研究者たちも指摘しているという[23]。それは、日常生活においてもハビトゥスとして顕れているといえる。現在でも多くのドイツ人は、台所の秩序を非常に重要視する。例えば、洗いあげた食器は水滴がついた状態で放置せず必ず拭き上げる。また、清潔と整理整頓を重んじるために、すなわち、境界が明確で分類された状態に保つために、台所の使用をひかえるということも珍しくないという。現在においても、インドネシア諸島のハビトゥスと比べて、ドイツ地域のハビトゥスは官僚制或いは上述の近代的特徴に親和性が高い。ドイツ政府やドイツ人の間で、ナチスの時代への反省が広くなされているのは確かであるが、疎外、合理化、規律化、管理統制、従属的主体というナチス政権を支えていたハビトゥスが現代でもドイツの人々の日常、さらには近代性をよりよく達成していると考えられている西欧諸国や所謂先進諸国の日常を形作っていることが意識されることはほとんどない。こういった日常やその価値観を照らし出して意識にとらえられるようにすることは、ドイツの人々や先進諸国の人々のタブーに触れることになるだろう。
ルアンルパのウェブサイトには、分類と境界が攪乱された状態を写した写真(作品)が少なからず掲載されている。ルアンルパHPの<アーカイブ>のカバー写真は、衣類や書類が乱雑に積み重ねられているところに食べ物の入った皿が乗っている部屋の有様を写している。2002年の光州ビエンナーレのルアンルパのカバー写真は、絵具まみれの皿や軍手やプラスチックシートと食べ物の入ったプラスチック容器、飲み物の瓶やつぶれた飲み物缶がまぜこぜに置かれているテーブルを写し出している[24]。彼らのミーティングの記録写真のなかにも、書類と食べかけの食物が入った皿が混ざっておかれている様子を写し出しているものがある。
2016年のあいちトリエンナーレでは、ルアンルパは「ルル学校」を開設した。それを参与観察した廣田氏は、彼らの運営における、よい意味での「いい加減さ」を評価している[25]。それと同様な「ゆるさ」は、現在ドクメンタのホームページにリンクされている夥しい数のYou Tubeの映像にも見て取ることができる。映像は、ルンブン・メンバーズ&アーティスツの等身大の出会いを、「とりとめなく」映し出している。また、ホームページには、用語集の項目があり、ドクメンタ15のテーマに関連するインドネシア語が多く掲載されているが、間違いが少なくない。Ecosystem/ekosistemがecostem、warung kopiがwarning copi、恐らくlumbungがventilationと誤記されている[26]。ドクメンタ15のテーマを表現する上でいずれも重要な語彙であるが、インドネシア語を理解しない人にとっては修正しようがない。こういった「ゆるさ」や「いい加減さ」は、近現代的価値観、特にドイツ的価値観のなかでは、否定的な要素であるかもしれないが、官僚的な組織化を避け、人間味ある等身大の出会いを実現し、知識やアイディアやリソースを共有し、有機的なネットワークを動的に形成してゆくプロセスの一部と考えることもできるのではないだろうか。
冒頭で述べたように、ドクメンタの出発点は、ナチス政権によって「退廃芸術」として弾圧された近現代芸術の復権および国際的な芸術界でのドイツの存在感を示すことであった。ルアンルパは、JaF、グッドスクル、タリン・パディを含むルンブン・メンバーズ&アーティスツとともに、「馴染むこと」「いい加減さ」「ゆるさ」「とりとめなさ」で、友情、連帯、共同性を生み出すとともに、ドイツ、さらに広く、近現代芸術を担ってきた先進諸国のタブーを照らし出すかもしれない。タブーを明るみにだすことは、ドクメンタや近現代芸術存立の根本的な問いかけとなり、苦痛を生み出すかもしれないが、同時に、芸術的祝祭への転回点、新しい理解への契機となることが期待できるのではないだろうか。
[1] Glasmeier, Michael and Stengel, Karin (eds.), 2005, Archive in motion. 50 Jahre documenta 1955-2005, Göttingen: Steidl. ドイツ文化政策研究者高岡智子氏のご教示による。
[2] ビショップ、クレア2016[2012]『人口地獄』
[3] https://www.rem.routledge.com/articles/persagi-persatuan-ahli-ahli-gambar-indonesia(2022年3月15日)
[4] https://www.rem.routledge.com/articles/gerakan-seni-rupa-baru (2022年3月15日)
[5] 廣田緑2019「現代美術の新たな戦略:アート・コレクティヴ――アーティストが組織を作るとき――」『人類学研究所 研究論集』第6号:97-128.
[6]Aoki Eriko 2004‘Kosmopolitanisme Austronesia’dan Indonesia sebagai Sistem Politik-ekonomi. Antropologi Indonesia No.74: 81-93. 2004‘Austronesian Cosmopolitanism’ and Indonesia as a Politico-Economic System.’ Antropologi Indonesia, Vol. XXXVIII: 75-86, Special Volume, Nils Bubandt and Andrea Molnar eds. http://www.jai.or.id/toc/toc04.htm
[7] https://www.youtube.com/watch?v=tbVhnCzQHiQ&t=17s 2022年3月15日。
[8] https://www.youtube.com/watch?v=YoajbzWc2Xs 2022年3月15日閲覧。
[9] https://www.taringpadi.com/ 2022年3月15日閲覧。
[10] 廣田緑1997『バリ島遊学記:絵・木彫り・人に魅せられて』世界文化社.p.103.
[11] https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/3P2LQ3V5J2/ 2022年3月15日閲覧
[12] 例えばhttps://www.youtube.com/watch?v=7kg0-ZuWdjA 2022年3月15日閲覧
[13] https://ruangrupa.id/proyek-terpilih/ 2022年3月15日閲覧
[14] オランダ語発音では、ソンスベークまたはソンスベイクと記述する方が妥当だと思うが、日本語の記述では英語読みでソンズビークと記されるようなので、ここではそれを踏襲する。ルアンルパ・インタヴューhttps://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/wlo8p0ohmuqslchtjaye 参照。
[15] https://www.sonsbeek20-24.org/en/previous-editions/sonsbeek-2016/ https://ruangrupa.id/2016/06/04/sonsbeek-16-transaction/ https://www.damnmagazine.net/2016/01/14/the-thrill-of-exchange/ いずれも2022年3月15日閲覧
[16] https://www.damnmagazine.net/2016/01/14/the-thrill-of-exchange/ 2022年3月15日閲覧。毎年ハーグで開催されるTong Tong Fair (Pasar Malam) にも、オランダ人のもつ植民地時代へのロマンチックなイメージが色濃い。筆者は2011年にTong Tong Fairを訪れた。同行したフランス人のベトナム近代史研究者は、「公的な場で、植民地時代をこのようにロマン化しノスタルジーの対象にするというのは、フランスでは考えられらない。」と驚嘆していた。
[17] ルアンルパ・インタヴュー 同上。
[18] ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』2017、みすず書房。
[19] グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下』2001、原書房、p.69。
[20] 2008,TWCGF Film Services II,LLC. https://cinerack.jp/thereader/
[21] スティーヴン・スピルバーグ監督、1993、UIP.
[22] 2012、水声社.
[23] 小野寺拓也「書評『ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』」『史学雑誌』122(11):1927‐36、2013.
[24] https://ruangrupa.id/2002/03/29/p_a_u_s_e-gwangju-biennale-2002/ 20220331閲覧。
[25] 廣田前掲論文。
[26] https://documenta-fifteen.de/glossar/ 20220331閲覧。