2021年7月25日(日)
文:青栁隆之介(福岡県文化振興課学芸員)
5月から始まったコレクティヴちっごも、いよいよ最終回を迎えます。筑後地域内外から参加者が集まり、明確な議題やゴールを定めないノンクロンという形で、ここまで対話を重ねてきました。対話の内容も、筑後の風土や文化、集団での学び、オンライン上でのコレクティヴ性、地域の公共施設活用の可能性、地元住民の視点と外部からやってきた人の視点の違い、そして各メンバーのドリーム・プランの共有から実践に向けた計画など、幅広いトピックの中で各々の思いや考えをシェアしてきました。実践に向けた進捗としては、コレクティヴちっごの活動コンセプトまでは決めることができました。この最終回で活動計画をできるだけ詰めて、実践に移行していきたいところです。
前回はゲストの方を迎えて様々なお話を聞くことができましたが、ある参加者の方は、その内容の根幹には「生きること」があるように感じたと振り返りました。コレクティヴちっごの活動のサブテーマでもある「つくること」と「かかわること」に加えて、コロナ禍で従来の価値観が崩れた今こそ、生きるとはどういうことかを人々に問いかけていきたいと、その方は続けます。思い返せば、初回のノンクロンでは、筑後の豊かなものづくり文化が、農業が盛んな風土とも結びついていて、生きるために何かをつくるという意識がこの地域には根付いているという参加者たちの考察がありました。その後も生き方の多様性について、メンバーはたびたび意見を交わすなど、プログラム全体を通して「生きること」を捉え直すことが通底するテーマだったようにも感じます。
さて、ここまではインドネシアのコレクティヴによるオンライン・トークを参考に、人が「集まる」ことの可能性を探ってきましたが、ある方は日本の身近なところにもコレクティヴの類があることを指摘しました。その一例に挙げたのが祭りの文化です。中には数百年の歴史を持つものもあり、振興会のような団体や地元住民、参加者など多くの人の支えによって、現代へと受け継がれています。たとえば、福岡の博多祇園山笠(以下、山笠)は、「流(ながれ)」と呼ばれる地区ごとのコミュニティによって運営され、それぞれの流がつくった「山(やま)」が男たちに担がれて博多の町を駆け抜けます。「山のぼせ(山笠に熱中する状態のこと。「のぼせる」は博多弁で「熱中している」の意)」という言葉があるほど、山笠の開催時期は大変な盛り上がりを見せています。筑後地域の祭りにも、久留米の「鬼夜」や八女福島の「燈籠人形」などがあり、そうした祭りを支えている人々を取材すればきっとおもしろい話を聞くことができると、その方は話します。そしてなにより、コレクティヴとは「やさしい」ということであり、そこが欠けてしまっては人が集まらず長続きもしないと強調されているのがとても印象的でした。誰でも参加でき、対等な関係性の中で協働するコレクティヴの性質を説明するうえで、やさしさはとても重要なキーワードだと、筆者もその場で気づかされました。このプロジェクト自体はコレクティヴの定義づけを目指すものではないものの、インドネシアの事例を知り、その内容を参加者たちが自身の肌感覚に置き換えてノンクロンを行うことで、自分たちなりのコレクティヴ像が形成されていった点は、事業の成果としても特筆すべき部分だと思われます。
また、県施設で文化事業に携わっている参加者の方は、県内には文化的な活動をしている人たちが多くいる一方で、それぞれのつながりが希薄な部分に課題を感じているといい、コレクティヴちっごではそうした活動家たちを身近なところから発掘していきたいと話します。ほかの参加者も、有名でなくとも地道にやっている人たちを取り上げていけば、すぐに数は集まるだろうし、祭りのように「のぼせて」やることが大切だと同意しました。以降も、自分たちが興味のある団体などをピックアップして、ゲストとして連れてくるといったアイディアが出され、地域の文化活動を発掘してドキュメンテーションしていくという実践の形は定まったといえそうです。具体的な取材先については、今後もメンバーがオンラインなどを活用して継続的にやり取りを行い、候補を出し合っていくこととなりました。
ノンクロンの中では、コロナ禍で人々が求めているものは「つながり」だという話も出ました。緊急事態宣言下では、飲食店への休業や時短営業、酒類提供禁止の要請の影響もあり、路上での飲酒が問題視されるようにもなりました。しかし参加者の中には、感染対策を目的とした規制は、行き過ぎると人々の精神的な健康を損なうことにもなりかねないと考える方もいるようです。
人々のつながりという点では、SNS上で「ハッシュタグリレー」と呼ばれる投稿が流行するなど、インターネットは一層重要なコミュニケーション・ツールになりつつあります。コロナ以前からインターネット上でのつながりには馴染みがあったであろう学生の参加者は、SNSの役割のひとつに情報収集があるといいます。友人との付き合いの中では、今のトレンドを把握するための情報が必要なのだそうです。若年層でも、一人の時間が苦しいと感じるのは変わらないようで、孤立しないためにもインターネットの情報は不可欠というわけです。それを聞いて、かつて教育者でもあった参加者の方は、生徒が「携帯電話のない時代に生まれたかった」というのを聞いて驚いたことがあると話していました。また別の方は、社会人になった今だからこそ、学校に行きたいと感じることがあるそうです。当時を振り返ると、学生時代に本などで得た情報を仲間と共有し合ったことが貴重な時間だったそうで、利害関係なしの仲間との交流が自身の大きな支えとなっていたといいます。そして、先のSNSの話のようにコミュニケーションで悩みを持っている若い世代にも、コレクティヴちっごで交流してもらえたらと、その方は語りました。本企画では人が「集まる」ことの可能性について、オンラインとオフラインの両面から考えてきましたが、この一連のやり取りからも、人々のつながりはオンラインだけで完結できるものではないことがよく理解できます。
最後に、自分たちの活動方針をパンフレットにまとめるというアイディアについて、話し合いました。このパンフレットは、コレクティヴちっごの存在を外部に知ってもらう広報物としての役割はもちろん、メンバー間での意識の共有を図るためにも作成するというものです。参加者からも、自分たちの名刺代わりになればいいし、口頭で伝えるだけではなく活字になることで相手の信頼も得られそうだという声もありました。中でも、検討事項として挙げられたのが「コレクティヴ」という言葉に、自分たちなりの和訳を与えることでした。確かに、集団的なさまを表すに過ぎないコレクティヴという単語だけでは、その集団の性格まで想起させることは難しいでしょう。では、インドネシアの文化やアートといった文脈を介することなく、自分たちの活動を説明するにはどういった言葉が適切なのでしょうか。メンバーはしばらく考え込んだものの、この時間だけでは自分たちの活動にぴったりと当てはまる言葉は見つけられず、今後は取材先の候補とともに各々で検討し案を持ち寄ることとしました。 ここで既定の全9回のプログラムが終了しました。詳細な活動計画まで詰めることはできなかったものの、コレクティヴちっごが様々なバックグラウンドを持つ人々が出会う「汽水域」として機能していくという活動コンセプト、そして「つくること」「かかわること」「生きること」というサブテーマは、3カ月間のノンクロンの集積がなければ導くことができなかったヴィジョンです。特に「生きること」は、この未曽有のパンデミックの中、世代も職業も異なるメンバーが集まったからこそ、強く意識されたテーマといえるでしょう。今後も継続の意思のあるメンバーとはやり取りを続けていき、地域文化の発掘とドキュメンテーションという実践に向けて、皆さんのアイディアを可能な限り形にしていければと思います。実践活動の歩みや成果については、追ってレポートしていく予定です。
- 開催場所
- 九州芸文館